青木島

青木島地区の見どころガイド

犀川乱流により形成された微高地に樹木がよく繁茂した所の意。「アオ」は青海原のように、あるいは鏡のような平らな水面とも解され、犀川の平坦地の流れからとも考えられる。

 



丹波島の渡し (たんばじまのわたし)

 ~ 歴史に残る犀川の渡し ~

 青木島地区は犀川に面し、北国街道、善光寺街道、松代街道などが通っていて、古くから交通の要衝として栄えた。犀川には渡し場が設けられ、船3隻・水主15人・船頭1人が松代藩から配備された。渡し船は川を横断して綱を張り、船頭はその綱を手繰って客を渡した。渡し賃は江戸中期で1瀬10文、2瀬30文、3瀬39文と定められ、番屋で船賃を払って往来した。


記念碑



旧本陣跡

丹波島宿 (たんばじましゅく)

 ~ 北国街道・善光寺街道の古い宿場 ~

 旧来、北国街道(北国脇往還)は松代通りであったが、慶長16年(1611年)、幕府は善光寺~丹波島~矢代(屋代)ルートを正式な北国街道とし、丹波島宿を伝馬宿として認定した。北国街道は宿の西端にある於佐加(おさか)神社前で南に折れる。宿の中央北側には本陣の柳島家と問屋の前に高札場(こうさつば)があり、宿の裏手には防火用水路が流れていた。北国街道は宿の東側で北に折れ、土居の枡形があった。


西端の於佐加神社

街頭脇の丹生寺山門

遺跡マップ

旧問屋跡

旧問屋と高札所跡



旧松代街道(善光寺方面を望む)

旧松代街道 (きゅうまつしろかいどう)

 ~ 松代と善光寺を結ぶ重要な街道 ~

 丹波島宿の中央部から丹生寺(たんしょうじ)山門前を通っている南北の道路は、江戸時代から明治ごろまでは城下町松代と善光寺町を結ぶ主要な街道で、松代道、善光寺道とも呼ばれていた。
 『長野県町村誌』に「丹波島駅辰の方において、北国街道を分岐し、南の方氷鉋村にいたる。長3町40間、幅9尺」とある。


松代方面を望む

街頭脇の丹生寺山門

旧本陣前へ通ず



三本柳記念碑

三本柳 (さんぼんやなぎ)

 ~ 集落境の目印・名前の由来 ~

 小山堰が太田堰・瀬戸川堰に分かれる50mほど上流に三本の柳があった。文化4年(1807年)丹波島と上氷鉋村との間に境界争いが起きたときに、境界の目印として植えたという。この付近を【三本柳】と呼んでいた。
 その後、万延元年(1860年)の村始まって以来の犀川大洪水で倒木したが、地名の俗称はそのまま行政区の町名として伝承された。現場には新しく3本の若木が植樹され記念碑が建立されている。


現在の三本柳

南側を流れる堰

整備された公園

隣接する三本柳小



浄生庵

浄生庵 (じょうしょうあん)

 ~ 等身大の地蔵菩薩 ~

 本尊、観音菩薩。開基は、寛延元年(1748年)浄生(じょうしょう)と記録されている。庵室にある等身大の地蔵菩薩は、遠く江戸から丹波島を通って他所へ運ばれて行く途中、この丹波島宿で根が張ったように動かなくなり、この地に安住するようになったと伝えられている。境内には、念仏行者の「徳本名号碑」がある。



縁起案内板

境内の祠



如意輪堂

如意輪堂 (にょいりんどう)

 ~ 大数珠を回して先祖の供養 ~

 大正6年(1917年)ごろ、観音堂として建立され、如意輪観音をまつる。尼僧が常住して、青木島、大北、下氷鉋地区の各家を回り、先祖の月命日に当たる日の夜読経をあげて先祖の霊を弔った。この堂は現在、公民館として利用されている。毎年9月の敬老の日には、大数珠を回して先祖の霊を弔っている。


お堂は公民館に

堂銘板

お堂前の常夜燈



毘沙門天立像 (びしゃもんてんりつぞう)

 ~ 木造・胡粉地彩色 ~

 来福院(らいふくいん)に安置されている毘沙門天立像は、綱島豊後守保品(やすただ)が、永禄4年(1561年)8月上杉謙信にしたがって川中島に出陣したとき、必勝を祈願し守りの本尊の毘沙門天を来福院に奉納したと伝えている。像の背面に「永禄4年8月18日奉之。綱島豊後守保品」の墨書きがある。


安置所の来福院

本尊は薬師如来

縁起を記す案内板



如意輪堂

不動明王立像 (ふどうみょうおうりつぞう)

 ~ 市指定文化財 ~

 文亀元年(1501年)祐尊(ゆうそん)(赤松満村、播磨の武将赤松則村の子孫)が高野山から不動明王を勧請(かんじょう)して、不動寺を建立したという。不動明王立像は、平安時代末期から鎌倉時代初期の作と推定されている。檜の寄木作りで不動寺の本尊。像高は151㎝。平成12年、長野市文化財に指定された。



館跡に建つ石碑

大堀館跡 (おおほりやかたあと)

 ~ 町田氏居館跡 ~

 大塚館跡とも呼ばれている。現在は更北中学校の校地の一部となっており、校門の脇に「大堀館跡」の石碑が建っている。大堀館は幅3間半、高さ2間半の土塁が四方を囲み、外側は幅4間、深さ9尺の堀がめぐらされ、土塁内は45間四方あったという。弘治元年(1555年)犀川を挟んで甲越両軍が対陣したとき(第2次川中島の戦い)武田信玄はここ大堀館を本陣とした。
 昭和初期まで名残りともいえる景観を残していたが、現在は更北中学校にその姿を変えている。


今は石碑が残るのみ 

現在は更北中学校に

ゆかりを記す案内板



町田正之の墓

町田兵庫正之の墓 (まちだひょうごまさゆきのはか)

 ~ 大塚領主の墓 ~

 町田正之は大堀館の館主、天文22年(1553年)甲斐の武田信玄に下り、永禄4年(1561年)6月、小岩岳城攻略の軍功で、高井郡福島郷に200貫、都合500貫の領地を与えられた。正之の墓は長徳寺墓地にある。
 長徳寺は「たぬきときつね伝説」の舞台となったお寺でも有名。

 


安置場所の長徳寺 

長徳寺本堂

墓は本堂の南西に 

たぬきときつね伝説