稲 里

稲里地区の見どころガイド

明治22年(1889年)中氷鉋・下氷鉋・田牧の3か村が合併したとき、「稲が豊かに実る里」と いう願いを込めて村名にした。氷鉋は『和名抄』に出てくる古代からの郷名。 文禄4年(1595年)の太閤検地帳によると、中・下氷鉋は耕地49町8反1畝12歩、屋敷地1町3反1畝20歩であった。



旧作新学校本館

旧作新学校本館

 作新学校 (さくしんがっこう)

 ~ 市指定文化財 ~

 明治5年(1872年)学制が公布・施行されると、下氷鉋・広田・藤牧・上小島田・青木島の5か村立の作新学校が善導寺を仮校舎として開校した。同7年に現在地に移転・新築された。その後明治16年に本館(元作新記念館)が建設された。当時としては洋風の最新建築物であったが、昭和31年に民間工場に譲渡され、昭和48年下氷鉋小学校100周年記念事業の一つとして、移転・復元して「作新記念館」となっている。


本館の全景

今は下氷鉋小の敷地内

瓦も明治時代の物

建物の歴史案内板



青木家

 

青木家文書 (あおきけぶんしょ)

 ~ 太閤検地帳等貴重な文書 ~

 

 青木家(青木十郎家)は、江戸時代上田藩川中島組 (中氷鉋・上氷鉋・今里・今井・岡田・戸部)6か村の割番庄屋を世襲で務めた旧家で、文禄4年の「太閤検地帳」をはじめ、代々の当主が書き記した割番日記、村明細帳、宗門人別帳、用水普請帳など5,500点余におよぶ古文書類が多く残されている。



幕張りの杉記念碑

幕張りの杉記念碑 (まくはりのすぎきねんひ)

 ~ 川中島合戦・停戦ラインのしるし ~

 

 永禄4年(1561年)9月、川中島合戦を前に青木次左衛門は、川中島西部6か村の代表を伴い、この地に戦禍の及ばぬように、武田・上杉両軍に申入れをした。両将もこの願いを聞き入れ、約束の標として屋敷の東側の杉の木に幕を張り、戦場との境とした。約束は守られ、これより西方へは一兵の侵入もなかったと伝えられている。
 終戦後、400有余年の老木となったため伐採され、屋敷内の杉を2代目としたが平成10年の台風により倒木。現在は石碑の脇に若木が植樹され当時の様子を伝えている。


青木家南

正門の西脇

由縁を記す案内



渕黙庵

参道の地蔵尊

渕黙庵 (えんもくあん)

 ~ 徳本上人念仏塔 ~

  文化年中(1804~18年)耕心庵第5世恒川(こうせん)により開山。堂宇を再建して渕黙庵と称し中興の祖となった。恒川の高徳を慕って帰依する人も多く、5、6名の修行僧を伴って布教を行っていた。尼僧泰元が2世を継ぎ、以降現在まで代々尼僧が当庵を継承している。また、境内入り口には、徳本上人直筆の名号碑をはじめ六地蔵、子安地蔵、雨乞い地蔵等の石造物があり、当時の里人の生活を物語っている。


石碑が並ぶ参道

庵門構え

参道の地蔵尊



氷鉋斗売神社

氷鉋斗売神社 (ひがのとめじんじゃ)

 ~ 由緒ある式内社 ~

  祭神は、宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)、八坂斗売命(やさかとめのみこと)で、延喜式神名帳に記載されている式内社。一時代神社名を諏訪大明神と称していたことがある。寛政6年(1794年)に現社号に改称された。中世までは、氷鉋郷(7か村)、斗売郷(10か村)の郷社で、現在の祝詞殿・拝殿は、明治11年(1878年)に再建された。


社殿

杉が並ぶ境内



善導寺の仁王門

善導寺の仁王像 (ぜんどうじのにおうぞう)

 ~ 戸隠からやってきた仁王さん ~

  参道中央の仁王門の左右に安置されている一対の寄木造りの仁王像(向かって右は那羅延金剛(ならえんこんごう)、左は密迹金剛(みっしゃくこんごう))は、戸隠神社が戸隠山顕光寺と号していた延享元年(1744年)、真光寺村(現長野市浅川)の山崎与市が宝光院(宝光社)に奉納したもの。明治元年(1868年)の神仏分離令により、東京本所の霊山寺住職大順の尽力もあって、明治3年に善導寺に払い下げられた。


善導寺本堂

金剛力士(阿形)

金剛力士(吽形)

門にある案内板



宝篋印塔

明桂寺の宝篋印塔 (みょうけいじのほうきょういんとう)

 ~ 天明の飢饉・供養塔 ~

 明桂寺の山門を入った左側に、高さ5mの宝篋印塔がある。この宝篋印塔は、天明の飢饉で亡くなった人びとを供養するため、大塚村の名主文蔵が建立したもの。天明3年(1783年)4月9日から7月8日までの3か月にわたって浅間山が大噴火を続けた。この噴火によって火山灰などの浮遊物が空を覆い、気温が低下して農作物は大凶作となった。そのため、飢饉となり多くの人が亡くなった。


宝篋印塔正面 

宝篋印塔背面 

明桂寺境内



お助け松

お助け松 (おたすけまつ)

 ~ 激流から人びとを救った松 ~

  弘化4年(1847年)3月24日(新暦5月8日)に善光寺の大地震で岩倉山(虚空蔵山)が大崩落し、犀川を20日間にわたってせき止めた。やがてそれが一気に決壊し、大激流となって川中島平に押し出した。この大洪水で逃げ遅れた近隣の人びとは、明桂寺の庫裏(くり)や松の木によじ登って命が助かった。後にこの松は「お助け松」と呼ばれ親しまれてきたが、平成8年に伐採された。


記念碑

当時松は門の左に 

明桂寺の全景



虎御前の墓

虎御前の墓 (とらごぜんのはか)

 ~ 悲劇の愛人 ~

 虎御前は、相模国大磯宿の遊女で、曽我十郎祐成の恋人であった。建久4年(1193年)5月28日曽我兄弟は、富士の裾野において父の敵、工藤祐経を討ったが、捕らえられて首をはねられた。これを悲しんだ虎は、出家して兄弟の遺骨を善光寺に納 めた。そのときこの場所に庵を結んだといわれている。


由縁の案内板

整備された墓碑

R19道路の北側



諸角豊後守の墓

諸角豊後守の墓 (もろずみぶんごのかみのはか)

 ~ 武田の老将 ~

 諸角豊後守昌清(虎貞)は武田方の勇将で永禄4年(1561年)9月10日 (新暦10月27日)の川中島の大激戦で討死し、この地に埋葬された。このとき81歳の高齢であったという。諸角豊後守の墓のある塔之腰には「諸角講」があり、講中の人びとによってこの墓は維持管理されており、今もって春秋2回集落挙げての祭典が行われている。


道路から見た墓所

手入れされた墓地

大きな墓石

雄姿を記す案内板



現在の小林家

小林家住宅 (こばやしけじゅうたく)

 ~ 大地主階層の邸宅・国有形文化財 ~

 明治初期に建築した川中島地方の大地主階層の典型的な邸宅であり、平成11年に国の登録有形文化財に指定された。建物は、2階建て瓦葺き(かわらぶき)入母屋(いりもや)造りの「主屋(おもや)」、瓦葺き切妻屋根の「北蔵」、鉄板葺き寄棟屋根の「燻蒸蔵(くんじょうぐら)」、「正門」の4棟からなっている。平成10年の長野冬季オリンピック大会のときは、ドイツからの観戦者約100人のホームステイを受け入れた。


主屋の全景

広い庭園

庭園の回廊

南門



2層の鐘楼

昌龍寺の鐘楼 (しょうりゅうじのしょうろう)

 ~ 松代城の櫓 ~

 四面角塔2層、高さ約15mの鐘楼は、松代城の火の見櫓を移築したとも伝えられている。
 鐘楼の2層の部分は、梵鐘(ほんしょう)をつく場所として明治初期に柱を継ぎ足したもの。基底部は2間四方の土間、1層の上部は1間四方の板張りの2階となっていて天井は低いが立って歩けるほどの高さがある。


南門より

南門本堂を望む



東昌寺の土塁

東昌寺の土塁 (とうしょうじのどるい)

 ~ 広田砦跡 ~

 広田砦は、昌龍寺辺りから東昌寺辺りにかけて武田方の川中島中央部の押さえとして弘治年中(1555~58年)に築いた砦と言われている。
 広田に所領を得た大日方佐渡守直長がこの砦の守将となったが、武田家滅亡後、砦は壊されてしまった。


本堂と土塁

寺を四方囲んでいた

高さは2mほど

案内板



桑山茂見の墓

狐丸塚 (きつねまるつか)

 ~ 桑山茂見の墓 ~

 桑山茂見は、武田方の将、小笠原若狭守長詮の家臣であった。永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、上杉軍の奇襲攻撃を受けた小笠原若狭守は今やこれまでと敵中に討って出ようとした。そのとき、桑山茂見が身代わりとなって、敵中に斬って出て討死した。合戦後里人は茂見の死を哀れみ、塚を築き墓を建て霊を弔ったという。

 


案内板が目印 

畑の脇にひっそりと

由縁の案内板