小島田

小島田地区の見どころガイド

古代は「頥気郷(いけのごう)」に、中世は「鴛間田之郷(おしまだのごう」に属していた。小島田の「オシ」はオシドリの飛来する、自然に恵まれたうるわしい土地 というところからきている。



信玄謙信一騎打ち像

川中島古戦場跡 (かわなかじまこせんじょうあと)

 ~ 川中島古戦場史跡公園 ~

 第4回川中島合戦、永禄4年(1561年)9月10日 (新暦10月27日)の激戦地となったところ。八幡原はこのとき、甲斐の武田信玄が本陣を設けた場所と伝えられている。この付近には本陣跡・首塚・三太刀七太刀の一騎討ち跡(八幡社地)など、小島田町は当時の合戦を伝える史跡や伝承が豊富な地である。
 現在、八幡社周辺は史跡公園として整備され、長野市立博物館などが併設されており、観光客はもとより市民の憩いの場所となっている。



観光客で賑わう八幡社

逆槐(さかさえんじゅ)

三太刀七太刀之跡の碑

執念の石

佐久間象山像



頥気神社

頥気神社 (いきじんじゃ)

 ~ 延喜式内社 ~

 祭神は、池生命(いけぶのみこと)。社伝によると永禄年間(1558~70年)甲越の戦火によって焼失し諏訪大明神と唱えたとある。その後、寛政元年(1789年)頥気神社の社名に戻った。天保13年(1842年)「式内」の社格の宣旨をうけ、現在にいたっている。 現社殿は、天保13年に再建された。


鳥居と参道

社殿全景

社殿正面



村役場跡記念碑

小島田村役場跡之碑 (おしまだむらやくばあとのひ)

 ~ 村役場跡 ~

  昭和57年(1982)国道18号の開通によって役場の敷地が道路敷となって建物が取り壊された。それを惜しんで昭和60年小島田町内会が旧役場跡地にこの碑を建立した。裏面の碑文には荒屋・釜屋両集落が明治22年(1889年)埴科郡寺尾村に編入合併、昭和30年小島田村など4か村合併による更北村の誕生、同41年長野市と合併など村の歴史がつづられている。高さ1.5rn・横2m。


大きな記念碑

いき交差点そば



新城の庚申塔

新城の庚申塔 (あらじょうのこうしんとう)

 ~ 古い石造物庚申塔 ~

  この地区の石造物のうち、時代の判明しているものでもっとも古いのは、市道大塚小島田線沿いにある新城組の庚申塔である。明暦(1655~58年)の年号が入っており、江戸初期の庚申塔の特徴である入母屋型石祠(せきし)で、2鶏・2猿が陽刻されている。裏面に「願主拾五人」の記銘があり、新城組の講中によって建立されたものと思われる。


きれいに整備されて

脇に建つ案内板

バス通りに接す



児観音と今井兼平の笈 (ちごかんのんといまいかねひらのおい)

 ~ 常然寺 ~

  所在地小島田町頥気。観音堂の本尊は頥気の児観音といわれ、かつでは8月15日が縁日で、参拝者でにぎわった。 この観音像は、今井兼平の守護仏と伝えられ、木曾義伸が元暦元年(1184年)近江国粟津で討死すると兼平は後を追って自害した。文永2年(1265年)兼平の子孫善慶がこの観音像を笈(おい)に背負って小島田に草庵を結んで安置したという。笈は兼平の笈として保存されている。


児観音堂



五里沢の大土手

五里沢の大土手 (ごりざわのおおどて)

 ~ 犀川大激流跡 ~

 弘化4年(1847年)3月24日の善光寺大地震で、岩倉山の崩落でせき止められていた犀川の巨流は、4月13日犀口から一気に川中島地方に押し出した。小島田地区は、ほぼ鯨沢(けいさわ)堰に沿って押し出した激流の被害をうけた。広田・小島田村境にあった五里沢の大土手で分流された激流は、南手は広田・八幡原前沖に向かって流れた。一手は北村裏沖から新城裏沖を突きかけ、千曲川を押し切って柴村を襲った。
 その昔はこの土手の上に用水が流れていたとも云われるこの大土手も現在は果樹畑となっている。大きな胡桃の樹は河岸であった様子をうかがわせている。


南高校の南東あたり

高さ2m程の土手跡



旧戌久保付近(千曲川右岸より)

寛保の満水 (かんぽうのまんすい)

 ~ 今に残る戌久保(いぬくぼ)の地名 ~

  寛保2年(1742年)の千曲川の大洪水を「戌の満水」ともいう。7月27日から8月1日まで降りつづいた豪雨で、干曲川は大氾濫し、沿岸村々に大きな被害をあたえた。小島田村では、男女77人、僧1人が溺死し、耕地は村高の7割が流失した。花立沖の小字「戌久保」は、この洪水でできた窪地からその名がついたと伝えられている。現在は桃やプラム、水田として農地利用されている。


現在は農耕地 

水田風景が広がる

川に背に西方を望む



更埴橋北詰から千曲川を望む

千曲川の氾濫原 (ちくまがわのはんらんはら)

 ~ 流出した鶴巻・小犀川の集落 ~

 小島田町の花立・紙屋・中組・中村・中沢の5集落は千曲川に翻弄された歴史をもつ集落である。寛保年間(1741~44年)の洪水で流亡した鶴巻・小犀川の住民は、水難を避けて新しい集落、紙屋を創設したり中組・中村に移住した。下鶴巻にあった桜田神社は、千曲川築堤事業によって大正8年(1919年)に現在地に移転された。


旧桜田神社付近



竣工記念碑

千曲川護岸・花立排水機場竣工記念碑 (はなたてはいすいきじょう)

 ~ 住民の悲願・治水 ~

 建立地小島田町花立排水機場敷地。干曲川護岸と花立排水機場竣工を記念し小島田町が平成13年(2001年)、タイムカプセルとともに建立した。裏面碑文は千曲川の洪水に苦しんだ当地区の歴史がつづられている。碑文冒頭の短歌「荒れ荒れし千曲の水は治まりて皐月晴れゆく柳水やさし」は重光作。文は帰去来子、書は鶴雲。カプセル開封は2100年5月30日。碑面横2m・縦1m。


千曲川土手より

無人の排水機場



天王の土手跡

天王の土手(てんのうのどて)

 ~ 尊良親王の徳をしのんで命名 ~

 南北朝の時代に後醍醐天皇の皇子尊良親王が、真島にしばらく滞在した。親王は、水害に苦しむ里人を気の毒に思い、里人を督励して土手を作らせた。里人は親王の去った後も、「天王の土手」と呼んで親王の徳をしのんだといわれている。現在の土手とほぼ並行するように河岸を東西に延びている。


左手が土手跡

千曲川の北岸